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聖域 ⑥

翌日から女は夫が家を出る時間、朝7時には着くようにし、夫が帰宅するとバトンタッチして自宅に戻る日々が続いた。
由香は少しづつ落ち着いてきたと夫から聞いた。
女とは一切口をきかなかったが夫に何度も言われたらしく女の用意する食事を部屋に運ぶとちゃんと食べるようになった。
由香の部屋のドアも開け放してあり、女も何かと口実をつけて「洗濯物ここに置いとくわよ」とか「雑誌でも見る?」などと由香の部屋には何度も出入りした。
声をかけても一切こちらも見ず、ただ窓の外を眺めているだけだったが、夫に懇願されたせいか食事だけはちゃんと食べてくれている・・・そう思うだけで女は嬉しかった。
私と由香には深い溝ができてしまっているけれど、夫自身も一生懸命、母親との溝をうめようと由香を心からかわいがってくれてきたのだ。
夫には感謝しても仕切れないわ・・・女はなんどもそう思った。

この家の近くに一人で住む年老いた母親には心配させないように、由香が体調をくずして家にいること、自分が休暇を申請して由香の世話をしていることなどを簡単に話してあった。
ただ足腰は弱っても察しのいい母親は由香が今 大変なんだと感じているらしかったが、
何も聞かず、「そうなの・・・あなた、お料理が得意じゃないのに由香にちゃんとおいしくて栄養のあるもの 作ってあげてるの?」そう言って微笑んだ。
年老いた母親は、手先はまだ器用で毎日編み物をしたり、袋物を縫ったりしている。
最近では区でやっている講座で木目込み人形を作ったとみごとな対の雛人形を見せてくれた。
「この人形の顔を見ると由香の小さい頃を思い出すのよ・・・」
そう言ってふっくらした人形の頬をなぞった。
私のせいでこの母親の一番の楽しみ、愛する孫に得意の料理を振る舞い何度もおかわりしてもらえる幸せを奪ってしまった。

ある土曜日 母親に呼ばれ女は久々に実家に出向いた。
土日は夫も仕事が休みのため、女も食材や身の回りのものなどの買い物を土日にまとめてするようにしていたので、その帰りに寄ってみた。
母親は「二日で編めたわ・・・」といいながら肩をたたきながら大判の、温かみのある卵色の肩掛けを女に手渡した。
「由香が風邪ひくといけないからね。」
ありがたかった。


翌日 女はいつものように家に行き、掃除、洗濯を始めた。
由香の部屋に行き、遠慮がちに
「由香、ばあちゃんがね、、由香にって。おばあちゃん 由香が風邪ひかないかって心配してたわよ・・・」
そう言って手編みの肩掛けを由香のベッドに置き、女は部屋を出た。
相変わらず由香とは一言も会話はできないが、最初のころに比べたら、顔色がよくなっただけ心強かった。

女が部屋を出て行くと由香は大好きな祖母の手編みの、卵色の肩掛けを手にとり広げた。
それを肩にはおるとじんわりと暖かかった。
由香はその肩掛けに顔をうずめて声を出さずに泣いた。
三週間が過ぎた。
由香は頑なに女と会話をすることを避けていたが、毎日由香とすごせる幸せをかみ締めていた。
夫の話では夜はリビングに下りてきて少し話す時間があると聞いた。
病院の先生から心療内科に通院してカウンセリングを勧められていて今度一緒に行こうという話しをしたらうなづいたと言っていた。
「由香も元のように元気になりたいと思ってる!」
そう思うだけで女はうれしかった。
数日後、夫は休みを取り、由香と二人で病院に行った。
カウンセリングを予約していたので、それを受けに行ったのだった。
女は家で食事の支度をしながら待っていた。
昼過ぎに帰宅すると夫から由香は大分 落ち着いたように見えるがまだ要注意と先生に言われたときかされた。
また来週予約し、しばらくは少しずつ話を聞いていくとのことだった。
そして、女にも由香の母親として一人で病院に来て欲しいといわれたと。
女はそれを聞いてすぐ主治医の担当の日を病院に確認し、一番早い日を予約した。

心療内科の予約の日、女は由香を夫に託し、一人で病院を訪れた。
主治医はすでに由香とは2回ほどカウンセリングをしており、その内容を簡単に女に伝えた。
たまに専門用語を交えながらも分かり易く丁寧に話してくれた。
夫が言っていたとおり、信頼感を与えてくれる医師だった。

医師は由香がアメリカの大学で心理学を専攻していたことを本人から聞いたのですが・・・と言い、本人も今の自分の状況を頭ではしっかりわかっていること、今の自分が嫌でたまらない、変わりたいと強く思っていることを感じていると女に伝えた。
医師は女に彼女自身についていくつか質問をしていくうちに、今 介護休暇をとり、毎日娘の世話をしていることや、自分が由香に対して抱いている思いなどを正直に話すのを聞いていくうちに、この母親が本気で娘に向き合おうとしていることを確信した。
「お母さん、大丈夫です。由香さんはきっと元気を取り戻します。おわかりでしょうが、お母さんを拒絶しているのは実は真逆で、母親への強い思いです。これからも由香さんを見守ってあげて下さい。」
女は医師に勇気づけられてカウンセリング室を出た。

部屋を出たときに、彼女を見て立ち止まる男がいた。
視線を感じて振り返るとそこにリョウヘイがいた。
「・・・絵里さん?お久しぶりです・・・」
10年ぶりの再会だった。
二人はしばらく無言でその場にたちすくんでいた。
男は女が心療内科のカウンセリング室から出てきたことを見て、尋ねていいものかどうか口ごもった。
「娘がこちらに通院してるんです。」
離婚してご主人が引き取ったことまでは覚えていたが、心療内科に親子で通っているという事実が何か深い悩みを抱えていることを想像させた。
二人は何も言わず、ロビーまで続く病院の長い廊下を並んで歩き出した。
「父が入院していて今日はその見舞いで来たんです。」
10年前にスキー場で出会い何度も逢瀬を重ねたことも二人にとってはずいぶん昔の事のように思われた。
体だけを求めてむさぼりあった日々を男は思い出していた。
その結果彼女は離婚し、今 疲れた顔で娘のことで深い悩みを抱えている。

「アキコさんはお元気ですか?」
「・・・ええ元気です」
女は結婚式以来アキコと一度も会っていなかった。
というより、結婚の挨拶状が一度きただけで、電話も年賀状も来ないので、今 どこでどうしているのか、元気なのかを心の片隅で気にはしていた。
それは男があえて自分あての連絡を止めているのだろうと考えていた。
病院のロビーで女は清算のカウンターに向かうため男に会釈して別れた。
考えてみれば東京のどこかで生きていて、ふとこんな風に偶然出あったことが男にとっては不思議でもなく当然のことのように感じられた。
男は女の負った罰を感じながら、自分が何もできない、してあげられないことが残念だった。
正直に言えば、この女と話したいと思った。
体を求めてではなく、女の話を聞きすべて受け止めたいと思った。
自分の中の空虚な部分を、あの包み込んでくれる暖かさで埋めてほしいとも思った。
しかし、今、さっき会ったあの疲れた表情を見て男は心の中で振り払い病院の駐車場に向かった。

女は家に戻ると夫に先生とのカウンセリングの内容を詳しく報告した。
夫も「あせらないでやって行こう」と言ってくれた。
すぐには溝が埋められないことは覚悟していたが、女はあらためて自分を責めていた。
でも、今は私が前向きにならなきゃ!と女は心に渇を入れた。
夕方会社からの電話で夫は出かけていった。
今開発中のものを製品化できるかどうかの会議とのことだった。
由香がトイレに降りて来たのと入れ替わりに女は二階の由香の部屋に行き、洗濯物をしまい、ベッドを整えた。
枕カバーを取り替えようとしたとき、枕の下に小瓶をみつけた。
それはまだ封をあけてない睡眠薬の瓶だった・・・それを震えながら、呆然と手にもってたちすくんでいると由香が後ろで叫んだ。
「触らないで!それを私に返して!」
すごい勢いで母親に飛び掛ってきた。
「由香!死ぬなんて考えないで!ママをどんなににくんでもいい!憎み続けていいから自殺なんて考えないで!」
「放っといてよ!私のことなんか何も知らないくせに今更母親面しないで!」
二人は睡眠薬の小瓶を取り合って、もみ合いになった。
由香は強い力で、ものすごい形相で女の手の中の睡眠薬の瓶を取り返そうと必死だった。
その小瓶だけが今の由香の唯一の心のよりどころのように。
「由香、お願い!お願いだから、死ぬなんで考えちゃだめ・・・」
二人とも涙を流していた。
由香は力尽きたように崩れ落ち、泣きじゃくった。

女も由香を抱きしめながら嗚咽した。
「由香ごめんね、今まで傍にいてあげられなくてごめん・・・」
女の胸の中できつく抱きしめられながら、由香は子供のように泣き続けた。

アキコは国立の実家で考え事をしていた。
5歳になった息子のコウヘイが両親と遊ぶのを見ながら考えていた。
数日前コウヘイの幼稚園が冬休みに入るとすぐに夫(リョウヘイ)に置手紙を残して実家に戻ってきていた。
アキコは10年前を思い出していた。
リョウヘイと結婚して半年後にニューヨークに転勤が決まり、あわただしく飛び立った。
もともとリョウヘイの所属している海外事業部のものには海外勤務はつきものだったのでアキコも結婚を機に仕事を辞めた。
ニューヨークに三年、北欧、イギリス、そして中国で現地法人を立ち上げて去年10年ぶりに日本に戻ってきた。
結婚式の日、チャペルの外でリョウヘイと絵里の会話の一端を聞き、二人に何があったのだろうと思ったが、慣れない海外生活に順応するためにそれで精一杯だった。
結婚が決まった時も会社の中で、仕事のできるリョウヘイを射止めたことが同僚の女性たちの間で相当うらやましがられ、アキコは有頂天になっていた。
実際 結婚してみると、リョウヘイはやさしく、独身生活が長かったせいかリョウヘイはまったく妻の手をわずらわせることのない夫だった。
身の回りのことも妻のアキコがもっと世話を焼きたがっても「大丈夫だよ。自分でできるから」といつも笑顔で言った。
海外生活の中で、現地の日本人駐在員の妻たちともたくさん知り合ったが、その中でもリョウヘイは自慢できる夫だったし、もっといろいろ自分に委ねてほしいというようなグチを友人達にこぼしても、まわりからはただのノロケと取られるのがオチだった。
絵里と夫に何があったのかという思いが心の片隅にあっても、今、絵里とは無関係の海外でリョウヘイが自分の夫として暮らしていることは事実であり、自分にそれを言い聞かせて考えないようにしていた。
なかなか子供ができなかったが、リョウヘイは海外は慣れたもので、不慣れなアキコを伴っていろいろなところに連れて行ってくれた。
アキコは幸せだった。
ただ、一緒に生活をしていくうちに、リョウヘイの心の一番奥には自分の入り込めない部分があるように感じていた。
一流企業のエリートで誰がみても男らしく誠実なリョウヘイ。
自分に対しても思いやりのあるこの男の奥底には一つトビラが閉まっていていつも鍵がかかっているような、そんな感覚だった。
「この人は私と結婚して幸せだろうか・・・」そう思うこともあった。
そんな感覚はなかなか説明しにくく、友人に話しても「それは誰にでもあることよ」とか「心を全部 共有できるなんて無理よ」「あなたは、あのご主人にこれ以上のことを求めるなんて贅沢よ!」などと一笑に付された。
「そんなものか・・・」
アキコは考えすぎていたことに苦笑した。

イギリスに転勤が決まった時、いつもは家のことはアキコが担当し、彼の身の回りのものは本来なら全部彼自身でやるのだが、辞令が降りてから現地に行く日まで日にちがないため、少しずつ夫の荷物もアキコが整理し始めようと考えた。書斎に入った。リョウヘイは夜、食事が終わると毎日必ず書斎で一人何か考え事をしている。そういったところもアキコにとっては少し寂しさを感じるところだったのだが、友人の言葉を思い返して苦笑した。机の上のたくさんの書類の山や読みかけの本は触らないほうがいいわね・・・と思いながら、本棚にある書物を箱に詰め始めた。転勤は宿命なので、二人ともものを増やさないようにしてきた。洋服なども流行にあまりとらわれない上質のものを数点用意してそれ以外はあまり買わないようにしてきた。本棚の一つのコーナーに韓国関係の書物や学生時代に自分で撮った韓国でのアルバムが何冊もあった。なぜかリョウヘイはいつどこへ行ってもこれらは処分せず携えていた。アキコ自身は冬ソナにはまって韓国語教室に通ったこともあったが、リョウヘイに韓国の話を振ってもあまり話しに乗ってくれなかった。
韓国語教室・・・そこで絵里さんと出会ったんだわ・・・結婚式の日に二人の様子をみて胸騒ぎを覚え、それ以降 あえて絵里とは連絡をとっていなかった。
書斎の机の引き出しを開けたとき、パスポートが奥に見えた。
いつも自分で管理していて一切さわることもなかったが、単純な気持ちでリョウヘイのパスポートを手にしてパラパラとめくった。
パスポートをめくると韓国の入国印が押されてあることに気づいた。
「韓国?この年は たしか結婚した年よね・・・」日付から自分たちがすでに付き合っていたころになるのだろうが、リョウヘイから韓国に行った話しは聞いた覚えがなかった。独身時代 ふらっと一人でよく旅に出かけたと言っていたから多分 それかしら・・・
どこかに引っかかる思いはあったが、パスポートの最初のページの、今よりかなり若い夫の写真をしばらくながめ、くすっと笑いながら、またもとの引き出しにしまい、荷物を詰め込み始めた。
夜 遅くにリョウヘイが帰宅した。書斎でアキコが自分の荷物を詰め込んでいることに一瞬 驚いたが、アキコに声をかけた。
アキコはリョウヘイに気づくと手を止めて
「あ、お帰りなさい。少しづつこの部屋の荷物も整理しておいた方がいいと思って・・・」と言った。
「ありがとう、でも会社の書類なんかもおきっぱなしだから後は自分でやるよ」
「そう?でもあまり日がないし、あなたも忙しいでしょうから、と思って。そうそうあなたのパスポートの写真、ほんとに若いわね!」そう茶化しながらリョウヘイにウィンクした。
アキコは軽く食事をする?とリョウヘイに聞き、書斎を出てキッチンに行った。
しばらく書斎にいた後、リョウヘイが着替えをしてキッチンに来た。
アキコは結婚前から料理の腕前は確かだった。それだけではなく、家事全般 きびきびとこなし、不慣れな海外生活の中でも順応しようと努力した。

「今度はイギリスか・・・」ワインを飲みながらアキコが言う。
ニューヨークに3年、北欧に2年、今度はヨーロッパに販路を拡大するために、イギリスに行くのだ。
「日本がなつかしいだろ?」
リョウヘイはアキコの作った、オードブルをつまみ、ワインを飲みながら言う。
そう言われてアキコは、むしろ自分たちが海外にいられることがアキコに不思議な安心感を与えていることに気づいていたが、それはリョウヘイには言わずに
「今度はイギリス・・・フィンランドの言葉には苦労したけど、今度は少し気が楽よね」
二人は英語には困らなかったが、なるべく現地の言葉を覚えようといつも努力した。
休日の夜は、知り合った現地の日本人の家族から言葉を教えてもらったりしたが、アキコはリョウヘイとのその時間がとても楽しいものだった。
アキコは物怖じしない性格で、すぐに誰とでも友達になることができた。
リョウヘイも長い海外生活の中で、そんなアキコの明るい性格にはどれほど助けられただろう。
by juno0501 | 2007-02-22 21:34 | 聖域 ⑥
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